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第83話 寝不足の理由が一冊です

作者: 八月 猫
last update publish date: 2026-08-09 09:01:07

 翌朝。

 私は会社のデスクで、コーヒーのカップを両手で包んでいた。

 眠い。

 とても眠い。

 理由は分かっている。

 昨夜、玲央さんと同じ本を読み始めたからだ。

 最初は少しだけ読むつもりだった。

 三章まで。

 せめて半分まで。

 区切りのいいところまで。

 そうやって自分に言い訳しているうちに、気づけば最後まで読んでいた。

 そして読み終えたあと、玲央さんから感想が届いた。

『最後まで読みました』

 私も読みました、と返したのがまずかった。

 そこから、ただの感想が始まった。

 ただの感想。

 のはずだった。

 主人公が相手に傘を差し出す場面について。

 最後に名前を呼び方を変える場面について。

 好きだと言わずに、でももう全部伝わっているようなラストについて。

 玲央さんは構成分析をしなかった。

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     会社へ戻ると、私はすぐに新しいファイルを開いた。 現場向け確認カード。 タイトルを打ち込んでから、指が止まる。 三行。 高梨さんは、そう言った。 現場で本当に見るのは、たぶん三行です、と。 資料を短くするだけなら、まだできる。 けれど三行にするとなると、話が違う。 説明を削るどころではない。 何を残すかを決めなければならない。 私は画面を見つめたまま、結和ケアで聞いた言葉を思い出した。 利用者さんを見る時間が減るなら、本末転倒です。 その一文を、カードの上に置くか迷った。 大事な言葉だ。 でも、それだけで一行を使ってしまう。 現場が本当に見る三行に、理念を入れていいのか。 それとも、別の場所に置くべきなのか。 悩んだ末、私はカードの上部に小さく見出しとして入れることにした。『利用者さんを見る時間を守るために』 そして、三行を打つ。 一、いつもと違うことに気づいたら記録する。 二、対応したことを一つだけ残す。 三、迷ったら宮坂さんへつなぐ。 短い。 短すぎる気がする。 でも、訪問前後の慌ただしい時間に見るなら、これくらいでなければ目に入らないのかもしれない。「琴葉、何してるの?」 隣から朱音が覗き込んだ。「三行にしてる」「何を?」「仕事を」「俳句?」「確認カード」 朱音は画面を見て、眉を上げた。「短っ」「三行だから」「本当に三行だ」「三行って言われたから」「素直」「素直というより、これ以上あると見てもらえないんだって」 朱音は少し黙ってから、画面に目を戻した。「でも、分かりやすいよ。何をすればいいかは分かる」

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  • 捨てたのはそちらなので、私は年下御曹司と婚約契約します   第99話 削る勇気

     会社へ戻ってから、私は修正版の資料を開いた。 結和ケアで赤字だらけになった紙を横に置き、パソコンの画面と見比べる。 現場向け一枚資料。 試験導入の目的。 入力項目。 判断の流れ。 家族への説明。 全部、大事だと思って入れた。 けれど宮坂さんは言った。 現場向けの一枚目に、目的説明はいらない。 高梨さんは言った。 本当は二分で見たい。 二分。 その言葉は、思っていたより強かった。 私は一行目にあった説明文を選択する。『本試験導入は、地域内における生活支援情報の連携を円滑にし、利用者および家族への対応品質を安定化させることを目的とする』 丁寧に書いたつもりだった。 でも、現場の人が訪問前にこれを読んで、すぐ動けるだろうか。 答えは、たぶん違う。 私はその一文を削除した。 画面から文字が消える。 たった一行なのに、少し胸が痛んだ。 続けて、二行目も消す。 説明を短くし、順番を変える。 最初に置くのは、目的ではない。 今日やること。 いつ書くか。 誰へつなぐか。 そこだけに絞る。「朝比奈さん、かなり削りますね」 隣で確認していた事業推進室の担当者が、少し驚いた顔をした。「はい」「大丈夫ですか。情報が足りないと言われませんか」「言われると思います」 私は画面を見たまま答えた。「でも、最初から全部入れて読まれないよりは、使われてから足したいです」 言ってから、自分でも少し驚いた。 以前の私なら、足りないと言われるのが怖くて、念のための言葉を残していたと思う。 責任を問われないように。 説明不足だと言われないように。 でも、念のための言葉が増え

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     白藤紗雪は交流会の資料を自宅の書斎で開いていた。 白藤福祉財団の理事から預かった出席メモ。 参加団体の一覧。 意見交換で出た懸念。 生活支援連携案に関する簡単な所感。 紗雪はそれらを静かに読み返し、最後に朝比奈琴葉の名前のところで手を止めた。 朝比奈琴葉。 以前、白藤家の席で会った時は、もっと控えめな女性に見えた。 礼儀正しく、出過ぎず、玲央の隣で少し緊張していた。 悪い印象ではない。 ただ、玲央の隣に立つには弱いように見えた。 けれど昨日の交流会では違った。 現場の人間の話を聞き、無理に反論せず、必要なところは認める。 そのうえで、自分の案の軸は手放さない。 華やかな答えではなかった。 人目を引く言葉でもなかった。 けれど、実務の場ではああいう答えの方が残る。「現場の自由を広げるのではなく、説明の責任を残す……」 紗雪は小さく呟いた。 悪くない。 そう思った。 少なくとも、誰かに守られているだけの女性ではない。 玲央の気まぐれで隣に立っているわけでもない。 それは認めてもいい。 けれど。 紗雪は資料を閉じた。 仕事ができることと、玲央の隣に立つことは同じではない。 玲央は、ただ優秀な女性をそばに置きたい人ではない。 そもそも、そういう近さを必要としてこなかった人だ。 だからこそ紗雪は気になっていた。 なぜ朝比奈琴葉なのか。 家柄でもない。 社交に慣れているわけでもない。 鷹宮家との縁が長いわけでもない。 それでも玲央が視線を向ける。 あの冷静で、必要以上の感情を見せない人が、彼女にだけ一瞬、目を和らげる。 昨日の会場でもそうだった。 玲央は朝比奈琴葉を助けに行かなかった。

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